60代の健康とお金ホームページ管理人来歴

初めまして、当ホームページ管理人の一ノ瀬と申します。

私が両親の健康について考える必要があったのは、遥か昔の1998年頃。まだ大学生だった私の元に父親が出向先で倒れたと一報が入ったのは、ちょうどその頃。

まさかこの後、家庭崩壊一歩寸前まで陥ってしまうとは考える余地もありませんでした。

両親とも死去して親族は弟と私だけになってしまった

私は、人一倍正義感の強い父親と、気の弱い母親の元、1970年代に神戸の長田区で生まれました。

両親ともに鹿児島出身ですが、父親が神戸の叔父の元へ養子に出たため、うちの親戚関係は複雑怪奇。親戚が多すぎて、未だ誰が誰だか分かりません。

父が養父母の養子になったのは、ちょうど太平洋戦争の5年程前だったと聞いています。その後運悪く、戦争が始まり豊岡へ疎開。

子供の頃の武勇伝は、数えきれないほど聞かされてきました。

戦後、養子先の一ノ瀬家は貧乏で大学に進学させてもらえず、止む無く神戸港で水先案内人の仕事をしていたと言います。私が船好きなのも、父譲りなのかもしれません。

そんな父の口癖は、「絶対に大学は出ろ!そうじゃないと一生バカにされるぞ」

厳格だった父親が原因不明の病気で床に臥せ闘病生活

とにかく、厳格で几帳面な父は惜しまれつつも神戸では有名な某造船会社を定年退職したわけですが、まだ大学生だった私や高校生だった弟を進学させるため、再就職しなければならず焦っていたようです。

一昨年母親が死んで実家を整理した際、父の日記を発見。当時の狼狽ぶりが手に取るようにうかがい知ることができました。

当時は、まだまだ子会社やら関係会社が無数にあった時代です。どういう経緯かは知りませんが、北区にある老人保養施設に再就職。

新天地ながら充実した毎日。

厳格ではあるものの人当たりはよく、誰からも好かれる父だったので持ち前のガッツで頼りにされていたようです。

そんな父が倒れたと連絡があったのは、夏の暑い日でした。

家庭崩壊一歩手前まで陥り家族の我慢は限界を超えた

当時は、軽い脳震盪程度の診断で家族全員ひと安心できましたが、父の容体は日を追うごとに悪化していきます。

昨日まで立って歩けていたのに、突然歩けなくなってしまったのです。

医者は、脳梗塞のような病気を疑いましたが、手足のまひもなく言動も全く問題ない。原因が判明するまで入院と言われましたが、1か月経っても原因は分からず、3か月経つ頃には「自宅療養」を宣告されていました。

この頃病院は、入院だけでは点数を稼ぐことが出来なくなり、長期入院する患者を転院または退院させる方向で走り出していました。

厳格だった父は、自分の置かれている状況が呑み込めず、家族に当たり散らしたり暴れ始めます。

老人ホームの職員である今でこそ、そういう状態に置かれたシニア層の気持ちを汲み取れるわけですが、当時はまだ大学生。

訳も分からないワガママや、暴力で母親を傷つける父親が許せず、こちらも病人である父親に暴力を振るうようになっていました。

それを見て、もっと悲しむ母親と、バカな兄貴に同調して凶暴になっていく弟。まさに改定崩壊とはこんな状態を言うんでしょうね。

私は言ってはならない「バカ親父は早く死んでしまえ!!」と罵るようになっていきました。

当時は介護保険制度が施行されておらず心のケアできず

今でこそ、介護保険制度が施行されて、ケアマネージャーや社会福祉士(ソーシャルワーカー)が心のケアをしてくれます。

でも、当時はそんなものどこにもなかったし、頼るものもなかった。

荒む心を止めてくれる人はおらず、お互いボロボロになりながら私は就職。弟が大学に進学しようとしていた矢先、父親は病院で息を引き取りました。

数日前、肺がんを併発していた父は、私にタバコの火をつけるよう病院の喫煙室で依頼しました。もう、タバコの火をつけることが出来ない程、父の肺活量は減っていました。

「病気が直ったら酒を飲もうな」「病気が直ったら一緒にゴルフコースを回ろうな」そんなたわいもない会話をしていた私達でしたが、結局仕事に行っていた私は父親の死に目には会えず、後悔だけが残りました。

父の介護の話をすっかり忘れていたサラリーマン人生

仕事も板について恋人ができ結婚し家庭を持って、父親の介護の記憶はすっかり忘れていました。

辛かったのもそうですが、病人に向かって「死ね」だの「ボケ」だの言った過去をとにかく消したかった。

そんな私に転機が訪れます。

長年勤めていた会社にリストラされ、転職を余儀なくされていまいます。世にいうリーマンショックの始まりです。

当時は日本中が不況の渦の中にあり、転職先どころではありません。もう派遣社員かバイトで食つなぐしかないなんて思っていたら、大学の先輩に「うちの施設で働かないか?」と誘われます。

それが今なお勤務している、有料老人ホームです。

大阪湾を一望できる山中にたたずむその老人ホームは、いわゆる高級路線をひた走るグループ会社。

元官僚に始まり、元政治家、元有名人、元社長や現役の社長。とにかくお金持ちしか住めない施設です。

私なんて、一生住めないであろう夢のお城。

介護の世界なんて自分には関係がないと思っていたし、母親の介護以外で関わるとは思いもしません。しかも、雇ってもらったにも関わらず「景気が回復したら、元の鞘に戻ろう」なんて考えていました。

ここの住民たちとの交流が始まるまでは。

人生の諸先輩方と喜怒哀楽を共にし成長していく私

この施設には、様々なご夫婦が終の住処として住んでいます。

  • 数年前にご主人を失くされた未亡人
  • 奥さんを失くして生きる気力をなくした大富豪
  • 娘を事故で亡くした資産家夫婦

100組の入居者様がいれば、それぞれ100通りのストーリーを持っておられる。

そんな環境の中、私達職員はご入居様達が健康にいつまでも過ごしていけるようお手伝いするわけなんですが、これが私のリストラされて荒んでいた心を癒してくれたんです。

重いものを部屋にお運びするだけで「ありがとう」と、テレビの電源が入らないから入れてさしあげるだけで「一ノ瀬君はテレビに詳しんだねぇ。また頼むよ」と毎日感謝されて働ける。

時には、亡くなったご主人のことを永遠に聞かされることもあった、娘さんを不慮の事故で亡くして部屋から出られなくなった資産家には、上司に隠れてコメディ映画を届け続けた。

感謝されるから、もっと役に立ちたいと奮闘する。

どうすれば介護職でない私でも役に立てるのか?真剣に考えた。

時には、介護職の主任に「あなたがそこまで出しゃばる権利はない!」と言われ凹んだこともある。看護士と意見の対立で喧嘩になったこともある。

でも、よくよく考えてみたら全部「入居者の皆様に如何に快適に過ごしてもらえるか?」って考えてのこと。

仕事に対してこんなにも情熱を注げるんだと考えた時、私の居場所が出来たような気がしました。

正直、上手くいかないことが多い職場ですが、私は今も働いています。

息子2人を立派に育て上げた母が倒れ3日後に逝った

一昨年、元気すぎて私達が困るほどの母親が突然倒れ、3日後には他界。

ショック過ぎて暫く出社できませんでした。

独り暮らしだった母は、冬の寒いある日リビングで倒れているところを、顔見知りの宅配業者に発見されました。

救急隊員の話によれば、倒れてから40時間が経っていると言う話。

その後、救急病院のドクターに「脳梗塞」と診断され、「4時間以内の発見だったら何とかなった」と言われ「このまま目覚めない方が、あなた達にとっては幸せ」とアドバイスされました。

老人ホームに勤めながら、母親の安否確認を怠っていた自分に無性に腹が立ちました。人は失くしてからでないと、ありがたみを感じることができない生き物なんでしょう。

「もし下半身不随になったり、言葉を話せなくなっても俺は1日でも長く生きていて欲しい」と弟がポツリと話し出しました。

普段は無口で何を考えているのか分からない彼が、そういうのです。

悲観していても始まらないから、私達兄弟とそれぞれの嫁は協力体制を整えていきます。交代で母親の介護を行い、LINEで情報を共有。

疎遠になっていた弟と、よりを戻せるような気がしてワクワクしたのを、今でもはっきりと覚えています。

運命は母を生かしてはくれず後悔の念だけがだだ残る

そんなちょっぴりワクワクした3日間は、あっという間に終わってしまいます。

再び病院から私の携帯電話に連絡が入ったのは、3日目のことでした。

「恐らくもう持ちません。ですから、1秒でも早く来院してください」との電話越しに、人口蘇生機のアラート音が聞こえてきました。

この音はもうダメなパターンだ。

そう直感しつつも、母により近い弟へ連絡。「俺も急ぐからお前も急げ!」

そうは言うものの、私の職場から母がいる病院まで片道2時間はかかってしまう。妻に連絡し途中で拾ってもらうも、渋滞に巻き込まれ思うように近づけない。

東西の道しか発達していない神戸特有の渋滞ラッシュです。

あと少しで病院というところで、無情にも「お母さん逝った。何で間に合わなかったの?!」という弟からのメール。

私は父の死に目だけでなく、母親の時も同様に立ち会うことが出来なかたのです。

 

 

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